ITは解決ではなく、それ自体が問題の一部である。
2009年 4 月 30日
「『IT以前』の問題は本当にあるのか?」(佐藤治夫・日経ITPro、4/27)という問題提起は、とても刺激的でいろいろ考える手がかりを与えてくれた。ITがビジネスにとっての与件である以上、「IT以前」に解決しておく問題はあり得ない、と佐藤氏は言う。「IT以前の問題だ」などと言って課題の整理を要求する“システム屋”は、想像力に乏しく、付加価値を追求しない、つまりユーザーにとってのパートナーではない、ということだ。さすが多くの開発プロジェクトに携わったコンサルタントだけあり、この連載(「ダメな“システム屋”にだまされるな」)は価値がある。
「情報」は独立した経営資源ではない
ところで、唯一気になったのは、「情報」は、「ヒト・モノ・カネ」に匹敵する重要な経営資源で、というありふれた一節である。筆者も昔に使ったことがある、一種のお題目に近いものだ。しかし、そもそも「情報」とはなんだろう。「ヒト・モノ・カネ」と同格に置くには違和感がありすぎる。同格に並べるというのは、IT(情報/システム資源)の重要性を経営者に自覚させる役には立ったかも知れないが、それによって肝心の「情報」の意味を誤解させることになったのではないか。とくにありとあらゆる場面で、あらゆる種類の「情報」が氾濫する21世紀では、価値は自明のものではない。意味のある情報を探すことが出来なければ、そもそも情報ではない。
情報というのは非常に逆説的なものだ。つまり、
- 「ヒト・モノ・カネ」に実体があるのに対して「情報」に実体はない。
- 「ヒト・モノ・カネ」の全体は「情報」でしか知ることができない。
という関係が成り立つ。経営情報は、行為の主体が「ヒト・モノ・カネ」の運用に関連して意味があると思えることがらのすべてであって、つねに「不定」である。現在得ているものを客観的なものと錯覚すると、人が「情報」に動かされることになる。それなら経験豊富な個人の勘に頼ったほうがまだましだ。「情報」は過去に想定したモデルに基づいて、現実の一部を把握するための指標にすぎないからだ。10年前の常識に基づいて経済政策を行うことが非現実的であるように、生きた市場を相手にする経営にとっての「情報」は、つねに検証・修正・補正されなければ、危険この上ないことになる。
情報は他のもの(例えば「ヒト・モノ・カネ」)の影であるが、人は影を通じてしか、それらを知ることはできない、と言い換えることもできる。自分たちが何のために何をやっているかを、人々が知っていた時代、あるいはITが扱う対象が、モノやヒトの単純な属性であった時代には、実体と影との関係はそう間違えようもなかった。だから、例えば データベースを中心とした業務処理システムを、データもひっくるめて「情報」として扱い、「ヒト・モノ・カネ」と並置しても、問題はほとんど起こり得なかった。ただ、この「情報」には、データとそれを扱う手順(プロセス)、計算機、出力して読み取るインタフェース(UI)が一括されていたことが重要であると思う。
仮想としての「情報」の現実化=倒錯と現実の情報=仮想化
かつて「情報」として扱われてきたIT環境が、肥大化してビジネスの環境のますます大きな部分を占めるようになると、それらを他の経営資源と並ぶ「擬似的実体」として扱うことは、非現実的かつ危険になる。逆にかつてはリアルなものとして捉えられていた「ヒト・モノ・カネ」は、情報化することによってますます仮想現実化してくる。ビジネスはもはや影像、鏡像、写像としてしか視ることができなくなっており、とりわけ誰も全体を視ることができない大企業は、現実世界でなく、仮想世界の中でビジネスを粛々と行うことになってしまっている。
これは、例えば日本経済の現状について、無数の「現実」を描くに足る無数の「情報」はあっても、どれが本当の(あるいは重要な)現実かを知ることが困難になっていることと似ている。例えば、日本の国家予算の(ほんとうの)数字は分からない。一般会計予算以外の部分が多すぎるからだ。「使われていない」と言われる「個人金融資産」がどのくらいあるのかも、失業者がどのくらいいるかも同様だ。すべての情報に表と裏があり、意図よって歪められ、矛盾する情報が混在する中では、結局「情報」などあって無きがごときものとなるだろう。「都合のいい事実」だけを並べてとりあえず信じてしまう、ということだ。「100年に1度の危機」への対応は、かくて100年前と変わらない、非科学的・非現実なものとなり得る。
「サブプライム」問題に端を発する金融恐慌、市場に対する現実感覚を失って巨大な損失を出した製造業は、この「情報」の罠につかまった例と考えるべきだろう。人々が「現実」であると考えている市場、顧客、あるいは在庫やキャッシュフローといったものでさえ、「情報」という不完全なブラックボックスを覗き込んで見えた写像にすぎないのだ。そのブラックボックスの有効性は、(前提となる現実が変化することによって)日々失われている。にもかかわらず、組織はますます「粛々と」それに依存する。いまや(錯覚が大きく、修正が困難な)大企業こそ巨大なリスクを負っていると考えるべきだろう。
「世界」を知り、再創造するためのIT環境
冒頭の佐藤氏の提言に戻ると、経営側が「経営の要求に応えるIT」を“他人事のように”要求し、システム側が「IT以前の問題の解決」をこれまた“他人事のように”求める、という状況がいかに危機的なものかがお分かりいただけると思う。前者は、現状認識すらITシステムの限界に依存している現実を理解しておらず、後者もなお「IT以前」があった時代に戻りたがっている。しかもIT以外の問題を見ようとしていない。ともに21世紀の現実に対して、20年以上前の「世界」観で行動しているのだ。Googleやアマゾンのような21世紀型企業とのギャップは絶望的に大きい。
すこしでもリアルな現実に近づく方法はあるだろうか。それは経営が、その前提としている「世界認識」の限界を批判的に検討し直すことから始めるしかない。人間はなんらかの枠組みを拠り所として、視座を決め、様々なカメラで世界を見ているのだが、その枠組みの有効性ははなはだ怪しいものなのだ。われわれが考えている「ヒト・モノ・カネ」も、決して自明ではない。「現実」の大部分は仮想のものである。混乱し絶望しないためには、、何が見えていて何が見えていないのかを、モデルによって構造化・可視化することが重要だと思う。問題を共有するにはそこから始めるしかない。例えば、ITによってデータ化されたヒト(社員/顧客)と生身のヒトとの違いはどうだろう。IT上の「カネ」は、どんな条件において、どの程度カネであるか。モノはどうか。
経営(あるいは政策)は価値を扱う知的作業であり、想像力と創造性が問われている。情報と混乱の両方をもたらすITになお期待するものがあるとすれば、上述した枠組みそのものを可視化し、自由な構築と組み換えを可能とし、新しい現実に対応した「有効な」情報をつねに供給してくれる環境を提供することだろう。筆者は巨大組織のシステム改革という意味で、米国連邦政府(ホワイトハウス)と国防総省の改革に注目している。CIO/CTO/CPOをワンセットとしたホワイトハウスの情報システム改革は、クラウド/Web 2.0 環境の下で同時的にダイナミックに実現しようという、史上空前のITプロジェクトだからだ。これについては、改めて検討したい。 (04/30/2009)
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[...] そうした意味で、ITコンサルタント・佐藤氏の最近のコラム「『IT以前』の問題は本当にあるのか?」(佐藤治夫・日経ITPro、4/27)という問題提起は、とても刺激的で、「情報」を考える上でいろいろな手がかりを与えてくれている(別のニューズレターに、「ITは解決ではなく、それ自体が問題の一部である」というコラム書いたので、興味がある方はこちらへ)。Web 2.0、あるいは社会性を持ったネットワーキングは、「世界」についての「情報」を得、「情報」によって働きかける手段あるいは環境としてのITの性格を大いに変えるものであると考えられる。つまり、従来のシステム観、情報観を改めないと、進化し続けるWeb 2.0をうまく使うことはできないのではないか、ということだ。 (04/30/2009) [...]